人の命の値段

先日トップランテストにより、「*マイナス*一億の男」となりました。その続きとして。
基本的にTVはあまり見ない。
嘘の世界は好きだ。ありえないことを作り上げ、それを楽しむのは大好きだ。しかしたまに、現実にそれが侵食していく。現実の出来事を脚色し、見世物にしてしまうことが多々ある。その人は今必死に生きているのに、物語のなかの人物と成り下がってしまってその人の苦しみとか悲しみの感情があることに気づけないときが有る。その人は生きているのに。僕らと同じように感じ、考え、生きていくのに。
とある番組が有る。TVの広範囲からなる一方的な情報網をいかし、未解決事件の情報提供を募る番組だ。警察が取り合ってくれなかったりする事件に対し取り組んだりしている。警察は時として、多すぎる守るべき対象によりその力を揮うことが出来ない制約に縛られていたり、あまつさえ同属に対し庇ったりしてしまう。そんな時この番組の存在は有意義といえるかもしれない。しかし、それと同時に被害者を見世物にしてしまっているのも事実。物語の登場人物になってしまった。
今回その番組で、心臓の病気(確か心筋拡張症だったはず)により心臓を摘出、人造心臓に頼って生きている少女が取り上げられていた。彼女は感染症によって昨今生死のハザマをさ迷ったらしい。今も彼女の容態は万全といえず、医者からはもって後半年と言われた。彼女は番組で言った、自分は生きたいと。彼女が助かるには渡米し、心臓移植を受けるしかない。しかしそのためには凄い費用が掛かる。一億でもどうかと言う。両親は必死に集めたが五千万しか集まらなかったそうだ。そこで番組で募金を募った。
が、ここで彼女を生出演させてしまった。彼女は物語の主役じゃない。でも同情でもお金が集まれば彼女は生きられる。僕は複雑な気分だった。五千万で彼女は生きれるのだ。僕が死ねば「マイナス一億」が消える。ってことは僕が彼女を苦しめているのか?


僕にできるのは安い同情だけだ。それでも募金でも何でもいいからあと五千万たまることを祈ろう。